<<チェックポイント>>
文化論では、明治時代・大正時代・昭和時代(戦前)・昭和時代(終戦後)の
- 断髪令と髪型
- 理髪用具の国産化と髪型
- 日常生活の西洋化
- パーマネントウェーブの導入
- 男性髪型の名称
- 女性髪型の名称
- 洋装のはじまり
- 男性社員の服装
- 職業婦人の服装
- 戦時体制と服装
- 流行の流れ
が【重点項目】とされています。要チェックです。
はじめに
時間のない方は、最後に総まとめを用意しているのでそこだけ見ていってください!
明治・大正・昭和っていつからいつまで?
明治・大正・昭和のそれぞれでどんなことが起こったか、流れをおさえて覚えましょう!
【年号まとめ】
1868
|明治
1912
|大正
1926
|昭和
1989
|平成
2019
西暦 |
年号 | 語呂合わせ |
1868 〜 1912 | 明治 | マー君無敗!いつ |
1912 〜 1926 | 大正 | プロ |
1926 〜 1989 | 昭和 | 野球 |
1989 〜 2019 | 平成 | 行く? |
覚え方は、「マー君無敗!いつプロ野球行く?」です!
18(マー君の背番号)68(無敗)〜12(いつ)〜26(プロ)〜89(野球)〜19(いく)
明治時代(1868〜1912)
明治時代には、日清戦争(1894〜1895)と日露戦争(1904〜1905)が起こります。
明治時代は、明治維新による文明開花によって服装・髪型などで西欧(外国)化が進みますが、日清戦争や日露戦争が起こると外国の文化を拒む動きが起こったりします。
江戸の幕末から明治政府が成立する1868年までの政治的革命のこと
明治時代の流れをザッと見てみましょう。
明治時代の文化の流れをザッと見!
明治維新による文明開花によって服装・髪型などで西欧(外国)化からの、日清戦争や日露戦争が起こると外国の文化を拒む動きを下の表で確認できます。
1968年 | 【日本の文化の撤廃】
明治時代開始 江戸時代まで行われていた、歯を染めること、眉を掃うことは遵守しなくても良いとされた |
1871年 | 【欧米化】
断髪令が出され、欧米風の断髪が推奨されるようになる。 |
1872年 | 【西洋化】
警察、鉄道員などの制服が洋服になる 富裕層、教官、政府の偉い人などが、欧米の背広を着用し始める |
1873年 | 【西洋化】
天皇が、自ら断髪したことで散切りや斬髪が急速に普及した。 皇后がお歯黒と剃り眉をやめたことで、これらは徐々に衰退していった。 |
1883年 | 【西洋化】
クリッパーがフランスから持ち帰られ、「丸刈」が生み出される |
1885年 | 【西洋化】
婦人東髪会によって洋風の束髪を普及させようという動きが起こり、広まっていく |
1894年 | 【日本文化の復興】
日清戦争が始まる すると、 ・兵士たちが丸刈だったので、かっこいいと話題になり「丸刈」流行する ・国粋主義によって外国の髪型である、束髪の勢いが弱まり、日本髪の勢いが増し、服装も和服になる |
1895年 | 日清戦争が終わる
日清戦争が終わると「チャン刈」が流行する |
1904年 | 日露戦争が始まる
すると、、、 ・外国の皇帝風の「カイゼル髭」が流行 |
ザッと見るとこんな感じです。
次は、髪型・服装について詳しくみていきましょう!
男性の髪形について(重要)(過去出題)
明治時代では、1871年に断髪令が出され、海外からクリッパーが持ち帰られたことで、以下のような髪型が現れます。
- 丸刈
- チャン刈り
- 長刈(なががり)
- 角刈
- ブロースカット
また、「カイゼルひげ」というひげの端っこを上に跳ね上げたようなスタイルの髭が流行します。
断髪令
断髪は、明治になるまで学者や医者などの特殊な階級に限られていて、ときには罪人をも意味するものでした。
1868年頃の男性の髪形は、断髪はまだ一部で結髪も存在し、当時の理髪風俗は非常に混乱していたところに、1871年 断髪令が出されます。(重要)(=明治4年、散髪脱刀令)
髷は武士の魂で、切り落とすことは大きな抵抗があったそうです。(重要)
また、政府や新聞社などからも断髪が推奨され、1873年 天皇自ら断髪したたことで散切りや斬髪は、急速に普及し、文明開化は頭髪からという考えが世に広まっていくこととなりました。(重要)
断髪は当時、散切りあるいは斬髪などといったそうです。(重要)
1871(いや無い)年→断髪令
①丸刈
1883年頃に、クリッパー(バリカン)がフランスから持ち帰られました。
クリッパーは、全体を短く刈りそろえる丸刈を生み出しました。
【丸刈りの種類】
丸刈りには、以下のような種類がありました。
- 八分刈(12mm)
- 五分刈(9mm)
- 三分刈(6mm)
- 一分刈(3mm)
- 五厘刈(約2mm)
五厘刈は衛生的で効率の良く、学生や労働者、軍人などが行っていました。(重要)
また、クリッパーの国産化には、1890年に成功しました。
国産化されたクリッパーは、フランス製をモデルにした内バネの片手式でした(重要)
しかし、数が少なく、値段も高かったのですぐには普及しませんでした。
②チャン刈り
日露戦争後には、鋏とクリッパーで刈る「チャン刈り」が大流行しました。(重要)
チャン刈は、前頭部の毛を長めに、後頭部の特に襟元の毛を短く刈るもので、
長刈(なががり)の次に上品な髪形とされ、紳士や大商人の間で大流行しました。(重要)
③長刈(なががり)
長刈は、鋏だけで刈る髪型で上品な髪形とされていました。
④角刈
明治時代には、角刈がチャン刈りの後に流行しました。
ミルクボーイの内海さんやジェラードンの西本さんみたいな髪型です。
その特徴が、頭頂部の毛を水平に、周囲の毛を垂直に刈るヘアスタイルやって言うねんな〜。
⑤ブロースカット
丸刈と角刈を折衷した(2つを合わせた)ような髪型
カイゼルひげ
明治時代になると欧米にならってひげをはやすことが再び流行しました。
日露戦争後には、軍人の間で当時のドイツ皇帝のひげを真似た、ひげの端っこを上に跳ね上げたようなスタイルのひげのカイゼルひげが流行しました。
明治の男性の髪型まとめ
チャン刈り | 鋏とクリッパーで刈る |
丸刈 | クリッパーで刈る |
長刈 | 鋏だけで刈る |
角刈 | 頭頂部の毛を水平に、周囲の毛を垂直に刈る |
ブロースカット | 丸刈と角刈の折衷 |
問題
チャン刈り
丸刈り
1871年
数が少なく、値段も高かったのですぐには普及しませんでした。
まとめ
明治時代の男性の髪型についての主な出来事には、以下のようなものがあります。
明治時代の女性の髪形
明治時代の女性の髪形は、束髪と日本髪が入り混じっていました。
束髪
明治時代に入ると、1885年の「婦人束髪会を起す主旨」によって、束髪が広がっていきました。
代表的な西洋束髪は、
- 西洋上げ巻き
- 西洋下げ巻き
- イギリス結び
- まがれいと
などがありました。(重要)
イタリアでも、フランスでもなくイギリス!
イギリス結び!グレートブリテン及び北アイルランド連合王国結び!です!
ただ、1894年に日清戦争が起こると、自国の文化や伝統を重んじる考えが広がり、束髪の勢いは弱まり、日本髪が復興してくこととなります。
そのころの束髪は、夜会巻きや、ひさし髷、二百三高地髷などとよばれていました。
日本髪
明治では、束髪が広まったものの、日本髪はまったく見られなくなった訳ではなく、日本髪も多くみられていました。(重要)
日本髪には、桃割れ、唐人髷、銀杏返し、文金高島田、高島田、奴島田、つぶし島田、天神髷などがまだありました。
明治時代での日本髪でも、江戸時代の身分・職業・貧富・既婚・未婚による髪型・髪飾りの制限がまだ存在していました。
1885(ひややっこ)年→婦人束髪会
問題
西洋上げ巻き
西洋下げ巻き
イギリス結び
まがれいと
明治では、束髪が広まったものの、日本髪はまったく見られなくなった訳ではなく、日本髪も多くみられていました。
まとめ
明治時代の女性の髪型についての主な出来事には、以下のようなものがあります。
道具
明治維新に伴って、道具の技術の洋風化も進んでいきました。
握り鋏・西洋理髪鋏
明治時代まで使用されていたU字状の握り鋏は切断力が弱く、かなりの握力が必要なものでした。
これに対し、西洋理髪鋏は切断力が強く、握力もそれほど必要としなかったため、一気に国内の需要が高まりました。
しかし当時、輸入されていた西洋理髪鋏は極端に少なく、とても高価なものであり、国内需要の急増にこたえるため、1887年には国産の理髪鋏が製造されました。(重要)
- 従来品
- 切断力が弱い
- 握力を要する
- 最小の力で動かせる
- 切断力が強い
- 高価
明治時代の化粧
お歯黒・作り眉
明治時代に入ると、1868年に公卿に対してお歯黒、眉を剃って作り眉にすることはかならずしも遵守しなくてよいという令が出されるという大きな変化が起きました。
そして、1873年に皇后が率先してお歯黒、作り眉をやめたことでこの文化は衰退していきます。
おしろい
明治のはじめころは江戸時代と同じ方法で行われていましたが、1887年(明治20年)に鉛製のおしろいが原因の事故があり、鉛の毒性が問題視され、1900年(明治33年)ころに無鉛おしろいが開発、1904年に発売されました。
当時は粉や水、練り、固練り(かたねり)のおしろいがあり、目的による使い分けも行われはじめました。
1900年→無鉛おしろい開発
明治時代の服装
明治維新後は、服飾の洋風化が文明開化のシンボルとされ、さらにはステータスとして、洋服が着用されました。
江戸の幕末から明治政府が成立する1868年までの政治的革命のこと
明治の洋服についての主な出来事
- 洋服の看護服が採用された
- 1872年 宮中の大礼服が洋服となった
- 1883年 上流階級の社交場であった鹿鳴館では、欧米ファッションのバッスルドレスが見られた。
- 1886年に、正式な場での洋装、東京女子師範学校の制服に洋服が採用された
しかし、
日清戦争頃(1894年)に、自国の文化や伝統を重んじる考えが広がり、和装へと戻って行ってしまいます。
和服についての主な出来事
- 1899年(明治32年)に高等女学校令が公布されると女学生が増加し、海老茶袴(えびちゃばかま)が女学生の代名詞として流行した。(重要)
女子に必要な中等教育を行うことを目的とし、高等女学校(いまで言う中学校)に関して規定した令
各府県に高等女学校の設置を義務づけるものでした。
入学は、12歳からで、修業は4年でした。
明治の重要な出来事まとめ
明治時代の重要な出来事をまとめると以下のとおりです!
【主な出来事】
- 1871年 断髪令
- 1873年 天皇自ら断髪
- 1883年頃 クリッパーが持ち帰られる
- 丸刈、チャン刈り、長刈(なががり)、角刈、ブロースカットが現れる
- 日露戦争後、カイゼルひげが流行
- 1885年「婦人束髪会を起す主旨」が起こる
- 代表的な西洋束髪には、西洋上げ巻き・西洋下げ巻き・イギリス結び・まがれいとがあった
- 束髪が広まったものの、日本髪も多くみられた
- 握り鋏から西洋理髪鋏へ(1887年には国産の理髪鋏が製造される)
- 1868年 お歯黒、作り眉を遵守しなくてよいという令が出される
- 1873年 皇后が率先してお歯黒、作り眉をやめたことでこの文化が衰退
- 1900年 無鉛おしろい開発、1904年に発売
- 洋服の看護服が採用
- 1872年 宮中の大礼服が洋服となった
- 1883年 鹿鳴館で、バッスルドレスが見られた。
- 1886年 正式な場での洋装、東京女子師範学校の制服に洋服が採用された
- 1899年 高等女学校令が公布され、海老茶袴(えびちゃばかま)が流行
大正時代(1912〜1926)
大正時代は、大衆男性の洋服化が進み、女性の洋服化の兆しが見え始めた時代です。
急激な欧米模倣の明治時代から大正時代に入ると、和洋折衷の生活様式になり、大衆の文化が発達していきます。
男性は洋装が仕事着になり、帽子の着用もみられるようになり、一方で女性は、おかっぱ頭にロングスカートが新しく女性の象徴となり、バスガールが洋装で現れ、セーラー服とスカートの制服が考案されたものの実際に洋装が普及するのは遅く、大正末から徐々に普及していきました。
大正では、洋装は仕事着として男性の間で普及していたが、女性はまだまだだった。
また、自由主義的な運動や民主主義思想が高まり、これらは大正デモクラシーなどと呼ばれました。
大正時代の大きな出来事としては、第一次世界大戦(1914〜1918年)と関東大震災(1923年)があります。
これより下では、大正時代の髪型・服装についてもっと詳しくみていきます。
では、いきましょう!
大正時代の男性の髪形
大正時代では、明治時代に続き、「角刈」や「丸刈」が行われていましたが、
第一次世界大戦中(1914〜1918年)では、戦場で綺麗に髪を分ける手間がいらないことから、ヨーロッパで流行っていたオールバックスタイルも伝えられました。(重要)
このオールバックが普及すると、派生して、
- ハーフロング(電気アイロンを使う)
- ハーフバック(電気アイロンを使う)
- ショートカットパーティング
- ショートカットバック
- スクエア
- スポーツカット
なども出てきました。
また、電気アイロンを使ったり、コテ(火熱式アイロン)で髪を縮らせたり、赤く染めたり、帽子の着用も盛んでした。
子どもの間では、頭頂部を長めにした「坊ちゃん刈」も流行っていました。(重要)
1920年には、電気クリッパーが輸入され、昭和に入ってから普及し始めるようになります。
大正時代の女性の髪形
大正時代は、明治時代の、華美で不衛生で非活動的だった束髪が改良されていきます。
主な出来事には、以下のようなものがあります。
【主な出来事】
- 山のように盛り上げた束髪のアンコ(すき毛)を減らし、前髪を七三分けにした女優髷が当時の女優たちによって結われた。
・・・日本髪が左右対称を原則としているのに対し、前髪を意図的に七三の横分けにするという新しい試みで、軽快で衛生的な髪形となりました。
- 1921~1923年(大正10~12年)ごろには、マーセルウェーブ技術などのアイロン技術が導入され、ウェーブをつけた髪で耳を隠す耳隠しが流行した。
・・・これらのアイロン技術を応用した髪形は、洋髪と呼ばれ、1930年代後半にパーマネントウェーブが普及し始めるまでは、洋髪が流行の最先端でした。
- おかっぱ頭にロングスカートが新しく女性の象徴として現れた
ただ、大正時代にも日本髪は依然として存在していて、桃割れ、島田髷、丸髷などがまだ結われていました。
大正時代の化粧
大正時代になると、バスの車掌、電話交換手、女優、看護婦など女性の社会進出が進み、それに伴って、化粧の目的が「他人へのエチケット」という考えが広まりました。
大正時代の化粧についての主な出来事には、以下のようなものがあります。
【主な出来事】
- おしろいは5色、7色と多色化が進んだ
- 大正末ごろには携帯できるコンパクトも現れた。(重要)
- 肌の手入れについては日焼け防止、そばかす防止クリームが登場した。
- 1918年(大正7年)ごろに棒状のリップスティックが国産化された。
- 頬紅は健康的に見える化粧として人気がでた
- 欧米の映画の影響を受けて、まつ毛を描くこと・細めの直線的な眉などのメイクが話題となった。
大正時代の服装
大正時代の服装についての主な出来事には、以下のようなものがあります。
【主な出来事】
- 男性の洋服が日常的な仕事着になり、都会の会社員の間で背広(スーツ)上下が普及した。帽子の着用も盛んだった。
- 女性の洋服は、まだまだ一部のみで、全体としてはまだ着物が多かった(洋装が女性の間で定着するのは、関東大震災(1923年)以降)
- 1918年 セーラー服とスカートの制服が考案される
- 1920年にはバスガール(車掌)が登場し、洋装の制服が採用された。
- 1923年頃 婦人の間で、アッパッパという夏の簡易服が流行する
大正の重要な出来事まとめ
大正時代の重要な出来事をまとめると以下のとおりです!
【主な出来事】
- 第一次世界大戦中、オールバックスタイルが伝えられる
- 男性の洋服が日常的な仕事着になり、都会の会社員の間で背広上下が普及した
- 帽子の着用も盛んだった
- 女性の洋服は、まだまだ一部のみで、全体としてはまだ着物が多かった(洋装が女性の間で定着するのは、関東大震災(1923年)以降)
- 「坊ちゃん刈」が流行っていた
- 女優髷・耳隠しが流行
- おかっぱ頭にロングスカートが新しく女性の象徴として現れる
- おしろいは5色、7色と多色化が進み、携帯できるコンパクトも現れた。
- まつ毛を描くこと・細めの直線的な眉などのメイクが話題となる
- 1918年 棒状のリップスティックが国産化される
- 1918年 セーラー服とスカートの制服が考案される
- 1920年 電気クリッパーが輸入される
- 1920年 バスガール(車掌)が登場し、洋装の制服が採用された。
- 1923年頃 アッパッパが流行する
昭和時代(1930年代)
昭和時代の髪形
昭和時代の男性の髪形は、はじめころは大正時代とほぼ同じでしたが、1933年(昭和8年)に、リーゼントがイギリスのスタイルとして紹介され、東京・銀座を中心に流行しはじめます。
そして、1936年になると電熱式のパーマネントウェーブが普及し、男性も女性も行っていました。
戦争で髪型が規制
1937年(昭和12年)には日中戦争が勃発すると、簡素で清潔な髪形が要求されるようになり、リーゼントやパーマネントウェーブなどは敵国の風習として禁止、男性も女性も髪形の自由が奪われていきました。
まとめ
昭和時代の髪型についての主な出来事には、以下のようなものがあります。
【主な出来事】
- 1933年(昭和8年)に、リーゼントが東京・銀座を中心に流行しはじめる。
- 1937年(昭和12年)には日中戦争が勃発すると、簡素で清潔な髪形が要求されるようになり、リーゼント、パーマネントウェーブなどが禁止される
昭和時代の化粧
昭和時代の女性の社会進出は目覚ましく、手軽にすばやくできる化粧が求められるようになりました。
そこで、携帯用のコンパクトな化粧品などが話題となりました。(携帯用のコンパクトが現れたのは大正末ごろでした)
明治時代(1887年)に問題となった鉛製おしろいが、昭和時代の1935年(昭和10年)に完全に販売禁止になります。
まとめ
昭和時代の化粧についての主な出来事には、以下のようなものがあります。
【主な出来事】
- 簡単に化粧できる携帯用のコンパクトが話題を呼んだ
- 鉛製おしろいが完全に販売禁止になる
昭和時代の服装
昭和時代になると徐々に女性の間で、洋装が定着してきます。
【女性の洋装率】
1928年(昭和3年) | 16% |
1933年(昭和8年) | 19% |
そして、モボ・モガとよばれる人たちが大正末から昭和初期にかけて、東京・銀座などに出現し始めました。
モボ
モボ(モダンボーイ)は、オールバックに縞や格子の背広とラッパズボン、帽子、ステッキを持った男たちのこと
モガ
柄物や縞物の洋装、膝下丈のショートスカートに断髪で、流行りのダンスホールなどに集まった女たちのこと
モガは、世間の批判を浴びたが、当時の人々に断髪する勇気を与えました。
まとめ
昭和時代の服装についての主な出来事には、以下のようなものがあります。
【主な出来事】
- モボ・モガが、東京・銀座などに出現
昭和の重要な出来事まとめ
昭和時代の重要な出来事をまとめると以下のとおりです!
【主な出来事】
- 1933年(昭和8年)に、リーゼントが東京・銀座を中心に流行しはじめる。
- 1937年(昭和12年)には日中戦争が勃発すると、簡素で清潔な髪形が要求されるようになり、リーゼント、パーマネントウェーブなどが禁止される
- 簡単に化粧できる携帯用のコンパクトが話題を呼んだ
- 鉛製おしろいが完全に販売禁止になる
- モボ・モガが、東京・銀座などに出現
明治・大正・昭和(1930年代まで)の出来事総まとめ表!
時代 | 主な出来事 |
明治 |
|
大正 |
|
昭和(1930年代まで) |
|
総まとめ問題
明治時代の服装などに関する次の記述のうち、間違っているものはどれか。
(1)1886年に、皇后以下の正式の場での洋装、東京女子師範学校の制服に洋服が採用された。
(2)洋服の導入は、まず幕末から明治にかけての軍服にみられ、明治維新後は服飾の洋風化が文明開化のシンボルとされた。
(3)洋装の看護服は、明治時代から着用され、特に赤十字の印がついた帽子姿は有名だった。
(4)1899年に高等女学校令が公布されると女学生が増加し、セーラー服が女学生の代名詞として流行した。
正解(4)・・・1899年に高等女学校令が公布されると女学生が増加し、海老茶袴が女学生の代名詞として流行した。
大正・昭和時代の服装などに関する次の記述のうち、間違っているものはどれか。
(1) 1940年には、軍服をモデルに国民服作られた。
(2) 1942年に女性の標準服が制定され、もんべが広く着用された。
(3) 1920年にはバスガール(車掌)が登場し、洋装の制服が採用された。
(4) 大正末から昭和のはじめにかけて、東京・銀座などにモボ・モガが出現した。モガは、 オールバックに、縞や格子の背広とラッパズボン、帽子、ステッキが定番でモボは 柄や縞の洋装、膝下丈のショートスカートに断髪だった。
正解(4)・・・大正末から昭和のはじめにかけて、東京・銀座などにモボ・モガが出現した。モボは、 オールバックに、縞や格子の背広とラッパズボン、帽子、ステッキが定番でモガは 柄や縞の洋装、膝下丈のショートスカートに断髪だった。